第2話
「沈黙する若手」
月曜日、朝の営業会議。会議室の壁一面のモニターに数字が並ぶ。売上グラフは先月より明らかに下がっていた。
亮一は腕を組みながらメンバーを見渡した。若手が多いこのチーム、平均年齢はまだ30にも届かない。誰かが何か言うだろうと思ったが、誰も口を開かない。キーボードを触る音と空調の音だけが部屋を満たしていた。
「どうだろう、この数字」亮一が言う。
数秒の沈黙のあと、村上が口を開いた。「市場が厳しいですね」
別の社員が続く。「競合も落ちてます」
「うん、そうだよな」亮一は頷いた。(でも、それだけか?)
会議はそのまま終わった。誰も異論を言わず、誰も議論を深めないまま、静かに席を立った。

亮一は違和感を覚えながらも、自分に言い聞かせた。(心理的安全性だ。若手が安心して働ける空気を作ることが大事なんだ)叱る必要はない、プレッシャーをかけない方がいい。ネット記事でもそう書いてあった。SNSでもよく見かける言葉だ。「怒らない上司が良い上司」。
しかし午後の会議でも状況は同じだった。議題は新しい商品企画。亮一が問いかける。「何か意見ある?」
メンバーは互いに顔を見合わせる。沈黙。
「特にありません」
「今の方向でいいと思います」
亮一は頷いた。(平和だな)だが同時に、胸の奥に小さな焦りが生まれていた。(本当にこれでいいのか)
数日後、別部署の同期部長と昼食を取った。
「どう?」と同期が聞く。
「心理的安全性を意識してる。若手が自由に意見を言えるチームにしたいんだ」
同期は箸を止めた。「で、言ってる?」
亮一は少し黙った。「いや…まだあまり」
「じゃあそれ、安全じゃなくて沈黙じゃない?」
亮一は苦笑いした。「そんな簡単な話じゃないだろ」
「いや、よくあるぞそれ。心理的安全性って“言いやすい”環境じゃなくて、“言わなきゃいけない”環境でもあるからな」
その夜、亮一はオフィスに残っていた。窓の外には地方都市の夜景が広がっている。社員のデスクはほとんど空いているが、村上だけがまだ席にいた。
「まだ仕事?」亮一が声をかける。
「はい、少しだけ」
「最近どう?」
村上は少し考えたあと言った。「みんな遠慮してると思います」
「遠慮?」
「部長が優しいから」
亮一は思わず笑った。「それは悪いことじゃないだろ」
村上は首を振る。「優しいと、逆に言いづらいこともあるんです」
「どういうこと?」
「期待に応えたいから、余計なこと言えなくなるというか…」
亮一は黙った。(そんなことがあるのか)
村上は続けた。「例えば今日の会議も、本当は別のアイデアあったんです。でも否定っぽく聞こえたら嫌だなって思って」
「言えばよかったのに」
「部長が“いい雰囲気”作ってくれてるじゃないですか。壊したくなかったんです」
亮一は窓の外を見た。夜の街は静かで、遠くの道路のヘッドライトがゆっくり流れている。(雰囲気を守ることが、意見を止めていたのか?)
会議を思い返す。確かに誰も対立しない。誰も反対しない。誰も踏み込まない。
(それって安全なのか?)
スマホを取り出し、「psychological safety」と検索する。いくつもの記事が出てくる。その中に、ある研究の説明があった。Googleのチーム研究「Project Aristotle」。高い成果を出すチームの条件として心理的安全性が挙げられている。しかし説明を読み進めると、ある一文が目に止まった。
「心理的安全性とは、リスクのある発言をしても罰せられないという信頼であり、対立を避けることではない」
亮一はスマホを見たまま固まった。(対立を避けることじゃない?)
その瞬間、会議室の沈黙の意味が少し変わって見えた。あれは安心ではなく、遠慮だったのかもしれない。
村上がパソコンを閉じる。「お先に失礼します」
「村上」
「はい」
亮一は少し考えてから言った。「次の会議、遠慮せず言ってくれ」
村上は少し笑った。「それ、みんなにも言ってください」
オフィスに静けさが戻る。亮一は椅子に深く座り直した。(心理的安全性って、優しさじゃないのかもしれない)
それでもまだ、確信はない。ただ一つ分かるのは、チームは今「安全」ではなく「静か」だということだった。
次回
第3話
「言えない空気」
なぜ若手は本音を言わないのか。心理的安全性を掲げたチームで、逆に沈黙が生まれる理由が明らかになっていく。
