「心理的安全性の誤解」⑤

「理想と現実のあいだで」

その週の木曜、朝6時40分
まだ家族が起きる前のダイニングで、亮一は冷めかけたコーヒーを飲んでいた
窓の外は薄い曇り空、向かいの家の屋根の上を、カラスが一羽だけゆっくり歩いている
テーブルには、昨夜持ち帰った会議メモ、営業速報、読みかけのビジネス書が重なっていた

「最近、早いね」
寝起きの妻が、カーディガンを羽織りながらキッチンに入ってくる
亮一は少し笑った
「まあな、考えることが多くて」
「また仕事」
「また仕事だよ」

妻はそれ以上踏み込まなかった
昔なら、「大丈夫」と言えていた
今はその言葉が、軽くて言えない
大丈夫じゃないのは、自分が一番分かっているからだ

(俺は、何を作ろうとしてるんだろう)
(優しいチームか、強いチームか)
(その両方を作りたいなんて、都合がよすぎるのか)

娘の部屋から、参考書をめくる音がした
受験生の朝は早い
息子はまだ寝ている
家族はそれぞれの不安を抱えながら、日常を動かしている
自分だけが特別苦しいわけではない
そう思うたびに、少しだけ胸が締まる


会社に着くと、空気はいつも通りだった
だが、いつも通りの中に、小さな変化が生まれていた
村上が朝の会議前に資料を持ってきて言う
「部長、これ、完成ではないんですけど、引っかかる点だけ先に共有してもいいですか」
亮一はすぐに頷いた
「いい、むしろその段階で欲しい」

その言葉を自分が自然に返したことに、亮一は少し驚いた
ほんの数週間前の自分なら、完成形を見せろ、と言っていたかもしれない
だが今は、未完成な違和感がチームを救うことを、身をもって知り始めていた

朝会が始まる
会議室の空気はまだ少し硬い
誰もが、どこまで話していいかを測っている
亮一はホワイトボードの前に立ち、いつもの数字ではなく、今日は別の言葉を書いた

「今日、止めるべきことは何か」

ざわつきが生まれる
若手の一人が小さく笑う
「攻めるじゃなくて、止める、ですか」
亮一は振り返る
「そう、攻める前に、止めるべきことを出したい」
「今のうちは、頑張ることより、無駄に走ることの方が多い」
「だから今日は、やることじゃなくて、止めることを決めよう」

その瞬間、空気が少し緩んだ
「それなら、今の販促案、対象が広すぎます」
「週報のフォーマットも、見直したいです」
「問い合わせ対応、誰が持つか曖昧です」
今までなら会議の終盤にも出てこなかった意見が、朝の5分で次々に出た

亮一は心の中で思う
(ああ、これか)
(言いやすい空気って、褒め合う空気じゃない)
(仕事を前に進めるために、遠慮なく止められる空気なんだ)


だが、現実はすぐに理想に従ってはくれない
午後、本部長との定例が入る
数字はまだ弱い
先月より悪くはないが、胸を張れる状態でもない

「最近、会議のやり方を変えたそうだな」
本部長が資料を閉じて言う
「はい」
「で、結果は」
亮一は一瞬、言葉に詰まる
「まだ、数字には出切っていません」
「そうか」
短い返事
責めてはいない
だが、その一言に十分な圧がある

亮一は理解していた
組織は、空気だけでは評価しない
数字を取り戻せなければ、どんな言葉もきれいごとになる
それが部長という立場だ

会議を出たあと、廊下の窓に映る自分の顔が疲れて見えた
(分かってる)
(理想を語るだけで許される年齢じゃない)
(でも、ここでまた圧だけをかけたら、何も学ばなかったことになる)

その板挟みが、想像以上に苦しい
誰かが言う
「心理的安全性を高めましょう」
誰かが言う
「数字も上げましょう」
その両方を同時に引き受けるのが管理職だと分かってはいる
だが、実際に引き受けると、体のどこにも逃げ場がない


夕方、村上が部長室をノックした
「少しだけいいですか」
「どうした」
「今日の会議、正直助かりました」
「何が」
「止めることを先に決めるっていうの、楽でした」
「今までは、何か出す時に、ちゃんと前向きな話にしなきゃって思ってたので」
「今日は、違和感だけ言ってよかったから」

亮一は椅子にもたれた
「でもな、それで結果が出なきゃ意味がない」
村上は少し考えてから言った
「部長、それ、逆かもしれません」
「逆」
「違和感が出せないから、変なまま進んで、結果が出ないんじゃないですか」

亮一は黙った
村上の言葉は、刺さるというより、静かに沈んだ
沈んでから、じわじわ効いてくる種類の言葉だった

(若手に教えるつもりでいた)
(でも、教えられているのは、こっちかもしれない)


夜、チームの定例が終わったあと、亮一は一人残って記録をつけた
今日の会議で出た違和感の数、途中で止めた案件、発言者の偏り、最後まで黙っていた人数
なんとなくではなく、見えるようにする
感覚だけでは、自分はまた都合のいい解釈をする
その怖さを、亮一は知り始めていた

手帳の端に、走り書きする

・心理的安全性は、沈黙を減らすためのもの
・沈黙が減ると、最初は会議が重くなる
・でも、その重さを通らないと、本当の課題に触れられない
・優しさは入口、率直さは出口
・その間をつなぐのが、リーダーの役目

書きながら、亮一はふと笑った
(俺、最近ずっと苦しいな)
(でも、前よりは嘘をついてない気がする)

その感覚は、小さいが確かだった


翌週、若手の一人が、会議の途中で言った
「これ、言いにくいんですけど、部長の説明、少し長いです」
一瞬、会議室が止まる
山本が目を伏せる
誰もが亮一の反応を見る

ほんの一秒、亮一の中で何かが反射した
(長い、だと)
(そこまで言うか)
(部長に向かって)

だが、次の瞬間、自分で自分をつかまえる
ここで守るのは、自分の面子じゃない

亮一は小さく笑った
「分かった、そこ大事だな」
「どこから長い?」

会議室に、ふっと空気が戻る
若手も少し笑った
「前提の説明が多いです」
「なるほど、じゃあ次から3分以内にする」

そのやり取りのあと、会議の質は明らかに変わった
誰かが上司に指摘しても、場が壊れなかった
それは、亮一にとって何より大きな変化だった

会議後、山本が近づいてきた
「今の、よく飲み込みましたね」
亮一は苦笑した
「危なかったよ」
「顔、少し固まってました」
「だろうな」
「でも、あれでかなり変わりますよ」
「そうだといいけどな」
「変わります、少なくとも“言っていいんだ”って、みんな思いました」

亮一は窓の外を見た
夕方の光が、遠くの住宅地に斜めに落ちている
家まで電車で一時間半
帰れば、家族がいる
それでも今、自分の頭の中にあるのは、チームの空気のことばかりだった

(心理的安全性って、便利な言葉じゃない)
(むしろ、覚悟を要する言葉だ)
(相手を守るだけじゃなく、自分の未熟さも晒すことになる)

そこまで考えて、亮一は少し肩の力を抜いた
理想通りにはいかない
正しくやっても、嫌われることはある
沈黙を破れば、空気は一度悪くなる
だが、そのプロセスを避けた先には、何も変わらない静けさしかない

その現実を、ようやく受け入れ始めていた


あなたへの問い

あなたの組織では、空気が悪くなることを恐れるあまり、本来必要な率直さまで避けていないでしょうか
部下が上司に意見を言えないのは、配慮不足ではなく、配慮が過剰になっているからではないでしょうか
あなた自身は、未熟さを指摘された時、それをチームにとっての前進として受け止められているでしょうか
また、心理的安全性を「誰も嫌な思いをしない状態」だと、どこかで思い込んでいないでしょうか
今のチームで本当に守るべきものは、空気の穏やかさなのか、それとも率直さの持続なのか、一度問い直してみてください


次回予告

第6話
「なぜ、会社は教えてくれないのか」
亮一は、心理的安全性をめぐる理想と現実のズレが、自分だけの問題ではないことに気づき始める
組織が“学ばせるのに教えない”構造、そのもどかしさに触れていく回に入ります

投稿者について

hideyuki_kubota

1967年生まれのひつじ年の獅子座。O型