「なぜ、会社は教えてくれないのか」
月曜の朝、亮一が出社すると、エレベーターホールの横に新しいポスターが貼られていた
白地に青い文字で、こう書かれている
「心理的安全性の高い職場を目指そう」
下には小さく
多様な意見を歓迎しよう
失敗を責めない文化を作ろう
安心して挑戦できる組織へ
亮一は立ち止まって、そのポスターを見た
きれいな言葉だった
非の打ちどころがない
だが、そのきれいさが、朝から妙に腹ただしかった
(目指そう、じゃないんだよ!どうやって作るかを、教えてくれよ!!)
その日、部長会があった
議題の一つは、全社で進める「心理的安全性向上プロジェクト」
人事部の担当が前に立ち、スライドを映す
「今年度は、全管理職向けに心理的安全性研修を実施します」
「例年行っている従業員向けサーベイでも、上司との関係性が大きな論点になっています」
「特に若手社員の定着率向上に向けて、各部門で対話を増やしてください」
亮一は資料をめくりながら、眉をひそめた
研修の予定、サーベイの設問結果、そして推奨ワード
きれいに整理されている
だが、探しても探してもどこにも書かれていないものがあった
会議の後半、本部長が言う
「現場のマネジメントは各部門長に任せる」
「数字を落とさず、離職も防ぎ、心理的安全性も高める、その両立を期待している」
亮一は思わず顔を上げた
(はっ?その両立の仕方を、誰が教えてくれるんだ、結局全部現場で考えろという話じゃないか)
会議が終わったあと、廊下で人事の担当者をつかまえた
「少しいいですか」
「はい、なんでしょう佐伯部長」
「心理的安全性の研修、やるのはいいんです。でも、現場では今 業務量も人員も変わっていない。
その状態で、対話を増やせ、率直な意見を引き出せ、離職も防げ、数字も上げろと言われても、かなり厳しいですよ」
担当者は困ったように笑った
「そのあたりは、現場ごとの工夫でお願いできればと」
亮一は一瞬、言葉を失った
「工夫、ですか」
「はい、部長の皆さまのマネジメント力に期待しています」
その言葉を聞いた瞬間、亮一の中に冷たいものが広がった
期待、という言葉の便利さを知っている
期待という言葉は、支援の不在を隠す時にも使われる
その夜、亮一は部門の定例会を前に、空き会議室で一人ノートを開いた
書いたのは、ポスターでも研修資料でもなく、今の現場で実際に起きていることだった
・率直な発言を増やしたい
・だが、会議は1時間しかない
・1on1をやれと言われる
・だが、部門長会議とレビューで埋まる
・若手に考えさせろと言われる
・だが、失敗コストは現場が背負う
・心理的安全性を高めろと言われる
・だが、評価制度は依然として短期数字中心
書いているうちに、胸の奥にたまっていた苛立ちが言葉になっていく
(会社は、いつも“概念”だけを渡してくる)
(現場が欲しいのは概念じゃない)
(時間と人と、試行錯誤しても責められない余白だ)
翌日、朝会のあと、課長の山本が部長室に来た
「昨日の部長会、どうでした」
亮一は苦笑いした
「あー立派な資料だったよ、、、でも、現場の苦しさは一行も書いてなかった」
山本は椅子に腰を下ろす
「結局、また現場任せですか」
「そういうことだな」
「心理的安全性って、便利な言葉ですよね」
「便利?」
「はい、会社としては“ちゃんと考えてます”って言えるし、現場としては“ちゃんとやらなきゃ”って焦るし」
亮一は思わず笑った
乾いた笑いだった
「耳が痛いな」
「でも本当じゃないですか」
山本は続ける
「制度や業務量が変わらないのに、コミュニケーションの質だけ上げろって、現場からしたらかなり無理がありますよ」
「しかも、数字が落ちたら結局叱られる」
「その状態で“安心して発言しろ”って、かなり難しいです」
亮一はその通りだと思った
会社は、心理的安全性を推進している
だが、組織全体の設計は昔のままだ
意思決定は上から降りる
評価は短期成果寄り
会議は多い
人は増えない
失敗は記録に残る
そんな構造の中で、現場にだけ「安心して挑戦を」と言う
それは時に、残酷だ
午後、若手の村上が資料を持ってきた
「部長、これ、会議用のたたき台です」
「ありがとう」
「昨日の話、山本さんから少し聞きました」
「何を」
「会社って、現場に求めること増やすのは得意ですよね、って」
亮一は苦笑いした
「そんな話まで伝わるのか」
村上は少し笑ってから、真面目な顔になった
「でも、部長が間に入ってるのは分かります」
「間?」
「上からの言葉と、現場の空気の間です。正直、そこ一番きつくないですか」
亮一は返事ができなかった
それは、誰にも言われたことがなかった言葉だった
部長として、上の意図を現場に伝え、現場の状況を上に上げる
その中間にいることが、自分の役割だと思ってきた
だが、その“間”こそが、今の自分を一番苦しくしているのかもしれない
夜、家に帰ると、妻が食器を片づけていた
「遅かったね」
「部長会が長くて」
「また?」
「まただよ」
「最近、ため息多いわよ」
亮一は少し黙った
「会社ってさ、ちゃんとやれって言う割に、どうやるかは教えないんだよな」
妻は手を止めた
「学校みたいだね」
「学校?」
「“自分で考えなさい”って言うけど、考えるための材料はくれない、みたいな」
亮一は、その一言に笑ってしまった
「うん!まさにそれだな」
「でも、会社ってそういうもんじゃないの」
「そうかもしれない」
「だから、部長であるあなたが勝手に作るしかないんじゃない」
勝手に作る
その言葉が残った
翌朝、亮一は部門内だけで始めることを決めた
全社が教えてくれないなら、自分たちで設計するしかない
朝会の時間を5分削り、週1回のショート1on1を試す
会議の冒頭で「結論」ではなく「違和感」から始める
未完成な意見を歓迎するルールを、資料ではなく実際の会議で反復する
そして、何より
「心理的安全性を高めろ」と言われたからではなく、仕事を前に進めるために必要だからやる、と言葉を変える
その日の会議で、亮一はチームに言った
「会社の施策として、心理的安全性って言葉がいろいろ出てくる」
「でも正直、現場はそんなにきれいじゃない」
「だから、うちは概念としてじゃなく、仕事を進めるための技術としてやる」
「遠慮せず止める、未完成でも出す、言いにくいことを消さない、その代わり、結論から逃げない」
若手たちは静かに聞いていた
誰かが大きく頷くわけでもない
でも、前回までのような“ふわっとした納得”とは違う感触があった
会議後、村上が言った
「今日の説明、前より分かりやすかったです」
「何が違った」
「心理的安全性を“いい感じの雰囲気”じゃなく、“仕事のやり方”として話してくれたことです」
亮一はその言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた
そうだ
現場が知りたいのは、理想論ではない
明日からどうするか、その設計図だ
窓の外には、少しだけ秋の気配があった
会社は、立派な言葉をくれる
だが、それを現場で生きたものに変えるには、誰かが泥をかぶらなければならない
その役を、自分は引き受けている
苦しいが、それが今の自分の立ち位置なのだと、ようやく認め始めていた
あなたへの問い
あなたの会社では、心理的安全性という言葉が、現場で実際の仕事の進め方まで落とし込まれているでしょうか
それとも、研修や標語、スローガンとして掲げられる一方で、評価制度や会議運営、人員配置は昔のままではないでしょうか
「対話を増やせ」「率直に言え」と言われる一方で、失敗のコストや時間の制約は現場がそのまま背負っていないでしょうか
あなた自身は、会社から渡された“きれいな言葉”を、そのまま使って満足していないでしょうか
今の組織で本当に必要なのは、概念の共有なのか、それとも日々の仕事に落とし込むための設計なのか、一度立ち止まって考えてみてください
次回予告
第7話
「若手は、本当に弱いのか」
亮一は、若手が“言わない”理由を、世代論ではなく行動と環境から捉え直そうとし始める
そして、自分自身が持っている“若手観”のバイアスとも向き合うことになる

