「心理的安全性の誤解」⑧

第8話

「叱ることは、本当に悪なのか」

火曜、17時18分
営業フロアの空気が一変したのは、先方からの電話が切れた直後だった

村上が受話器を置き、顔を上げる
「部長、B社の件です」
その声だけで、亮一には嫌な予感がした

「何があった」
「見積条件が違います」
「違うって、どこが」
「納期です、本来三週間のところ、提案書には二週間で出してます」
「誰が作った」
「叩き台は藤崎です、チェックは私です」

亮一は一瞬だけ黙った
だが今回は、飲み込まなかった

「二人とも、会議室」

短い言い方だった
強かったが、怒鳴ってはいない
ただ、逃がさない温度だった

ガラス張りの小会議室
外からはフロアの白い光が差し込み、室内だけが妙に静かに感じる
藤崎は資料を抱えたまま、椅子の端に浅く座っている
村上はいつもより背筋が硬い

亮一は椅子に座らず、立ったまま言った
「まず確認する。二週間と書いたのは、誰の判断だ」

藤崎が口を開く
「私です」
「根拠は」
「先方が急いでると聞いていたので、できるだけ前倒しの方が刺さるかと」
「できるかどうかは、誰に確認した」
「製造には、まだ」

亮一はそこで言葉を切った
机に置かれた提案書の納期欄を指で叩く

「これは営業の判断で書いていい数字じゃない。急いでるから、刺さるから、そういう話じゃない」
「できない約束を先に出したら、後で現場が死ぬんだ。そこは分かってたか」

藤崎の顔が赤くなる
「はい、でも・・・」
「でも、じゃない!」
亮一の声が少し低くなる
「ここは曖昧にしない。今回のミスは、善意じゃ済まない」
「社内の製造も、先方も、両方振り回す」

村上が小さく言う
「部長、僕も気づいてました」
亮一はすぐそちらを向いた
「だったら、なぜ止めなかった」
「確認しきれなくて」
「確認しきれない時点で止めるんだよ。出していいか迷ったら、出さない、それが基本だ」

会議室の空気が張る
藤崎は下を向いたまま動かない
村上も黙った

だが亮一は、ここで言い方を変えた

「いいか、聞いてくれ。叱るために集めたんじゃない。ただ、これは明確にしておく必要がある」
「営業が現場の確認なしで納期を約束しない、ここはルールだ」
「仕事としてやってはいけないことは、やってはいけない」

藤崎がようやく顔を上げた
「……すみません」
亮一は首を振る
「謝罪は俺にじゃない。先方にする、だろ?」
「社内では、まず何が抜けたかを言葉にしろ」

数秒の沈黙
それから藤崎が絞り出す
「確認しないまま、期待に寄せてしまいました」
「何の期待だ?」
「早く返した方が、評価されると思って」

亮一はそこで初めて、少しだけ表情を緩めた
「そう、そこだ!その感覚を先に言ってほしい」
「急いだ方がいいと思った、評価を意識した、そこは事実として分かる」
「でも、その判断でルールを飛ばしたらダメだ。ここを混ぜるな」

村上も口を開く
「僕は、気づいた時に止めると、藤崎の流れを切る気がして」
亮一は即座に返す
「切れ!」
「そこで切るのが仕事だ」
「空気を悪くすることと、事故を防ぐことを混同するな」

その言葉は、自分にも向けていた

ここ数か月、自分はずっとそこを曖昧にしてきた
場が重くなることを避けた
若手が縮こまることを恐れた
その結果、何を失いかけたか
今、目の前で起きている

亮一は椅子に座り、少しトーンを落とした

「いいか、ここは勘違いするな。叱るな、じゃない!感情で潰すな!ってだけだ」
「ミスを止める、ルールを通す、責任を明確にする、これは上司の仕事だ」
「それをやらずに、優しく見せる方が、よほど無責任だ」

藤崎が、今度はまっすぐ亮一を見た
目が少し潤んでいる
だが、さっきまでの怯えだけではない
何かを受け取り始めた顔だった

「……部長」
「何だ」
「今まで、怒られないようにすることばかり考えてました」
「でも今日、初めて、何を怒られてるのかは分かりました」

亮一は短く頷いた
「それでいい」
(分からないまま終わる叱り方が、一番まずい)

村上が資料に目を落としながら言う
「部長、正直に言うと、最近ちょっと怖かったです」
「俺がか」
「はい、というか、何を言われるかじゃなくて、何も言われない方が」
亮一は少し笑った
「分かる気がするな」
「黙ってると、逆に“どこが地雷か”分からないので」
「じゃあ今日は、分かったか」
「はい、かなり」

その会話で、会議室の空気が少しだけ戻った

その後の対応は早かった
B社にはその日のうちに亮一が直接電話を入れた
「申し訳ありません。社内確認前の数字が出てしまいました、こちらの確認不足です」
言い訳はしない
代替案を二つ出し、選択肢を先方に渡す
社内では製造と調整し、再提案の時間を確保する

会議室を出たあと、山本が待っていた
「どうでした」
「怒ったよ」
「そう見えました」
「でも、怒鳴ってない」
「そこが大きいですね」

亮一は、廊下の窓に映る自分の顔を見る
少し強張っていた
だが、今までのような“やってしまった感”はない

「山本」
「はい」
「今まで、叱ること自体を悪だと思いすぎてたかもしれない」
山本はすぐに答えた
「悪い叱り方はあります」
「でも、正さないのは、別の意味で無責任です」
「だよな」
「はい、現場はそこ見てます」

夜、亮一は手帳を開いた
今日の会議で起きたことを、細かく書き出す

・ルール違反は、感情を抜いても強く止める
・“優しくある”と“曖昧にする”を混同しない
・心理的安全性は、注意しない理由にはならない
・叱る時ほど、論点を一つに絞る
・曖昧な空気より、明確な基準の方が若手は動きやすい

書きながら、亮一は自分の中の恐れも認めていた
本当は怖かった
今日みたいに強く止めて、若手が一気に閉じるかもしれないと思っていた
だが実際には逆だった
何がダメで、何を守るべきかが見えたことで、空気はむしろ落ち着いた

心理的安全性とは、ぬるさではない
「どこまで言っていいか分からない不安」を減らすことだ
そのためには、言ってはいけないことも、やってはいけないことも、明確でなければならない

亮一はそこでようやく、自分の中の言葉が少し変わったのを感じた
“優しい組織”ではない
“安心して、厳しく働ける組織”
それに近い何かを、自分は作ろうとしているのかもしれない


あなたへの問い

あなたの組織では、ミスを指摘すること自体が避けられていないでしょうか
注意することと、感情的に責めることを、同じものとして扱っていないでしょうか
上司であるあなたは、「場が悪くなること」を恐れるあまり、ルール違反や曖昧な判断を見逃していないでしょうか
また、メンバーは本当に「叱られたくない」のでしょうか
それとも「何がダメなのか分からない状態」の方を、強く恐れているのではないでしょうか
あなたのチームに今必要なのは、優しさの追加なのか、それとも基準の明確化なのか、一度立ち止まって見直してみてください


次回予告

第9話
「それでも、人は辞める」
亮一が少しずつ手応えを掴み始めた頃、思いがけない形で“離職”の話が持ち上がる
心理的安全性を整えてもなお、組織が抱える別の現実が見えてくる回に入ります

投稿者について

hideyuki_kubota

1967年生まれのひつじ年の獅子座。O型