「心理的安全性の誤解」⑨

第9話それでも、人は辞める

職場の空気が、少し変わり始めていた。

亮一にも、それはわかった。

会議で黙っていた若手が、以前より少しだけ意見を出すようになった。
報告の場で、都合の悪い数字をごまかす空気も減ってきた。
「すみません」で終わっていた会話が、「次はどうしますか」まで進むことも増えた。

もちろん、完璧ではない。

人はそんなに急には変わらない。
組織も、一度の研修や一度の面談で、急に筋肉質になるわけではない。

それでも亮一は、少しだけ手応えを感じていた。

間違っていなかったのかもしれない。

そう思い始めた矢先だった。


月曜の朝。

亮一が出社すると、山本がすぐに席まで来た。

「部長、少しよろしいですか」

声が硬かった。

亮一はパソコンを開きかけた手を止めた。

「どうした」

山本は、周囲を一度見てから言った。

「村上が、退職の意向を出しました」

亮一は、すぐには返事ができなかった。

村上。

以前、夜のオフィスで亮一に問いかけた若手社員だった。

「心理的安全性って、何でも許されるって意味じゃないですよね」

あの一言は、亮一にとって、この数か月の出発点のようなものだった。

「……いつだ」

「金曜の夕方です。私に話がありました。正式な退職届はまだですが、本人の意思はかなり固いです」

亮一はゆっくり椅子に座った。

「理由は」

山本は少し言いづらそうにした。

「表向きは、キャリアの方向性です。別の環境で挑戦したいと」

「表向き、か」

「はい」

山本は、手元のメモを開いた。

「ただ、少し気になる言葉がありました」

亮一は黙って続きを待った。

山本はメモを見ながら言った。

「“最近、職場は前より話しやすくなったと思います”」

亮一は小さくうなずいた。

「“でも、自分がここで長く働くイメージは持てませんでした”」

その言葉で、亮一の胸の奥が重くなった。

山本は続けた。

「“部長が変えようとしているのは伝わっています。でも、自分の未来がここにあるかと言われると、正直わかりませんでした”」

亮一は、何も言えなかった。

変えようとしているのは伝わっている。

それでも、辞める。

その事実が、静かに亮一の前に置かれた。


会議室に移動して、亮一と山本は向かい合った。

山本は、責めるような顔をしていなかった。
むしろ、自分も一緒に何かを受け止めようとしている顔だった。

「部長」

「何だ」

「正直、少しショックです」

「俺もだ」

「村上は、最近少し変わってきていたと思っていました。会議でも発言が増えていましたし、前より表情も硬くなかった」

「そうだな」

「だから、もう少し何とかなると思っていました」

亮一は、机の上に置いた自分の手を見た。

「俺も、そう思っていた」

山本は小さく息を吐いた。

「でも、辞めるんですね」

亮一は、ゆっくり言った。

「それでも、人は辞めるんだな」

言葉にした瞬間、亮一自身がその重さを感じた。

心理的安全性を整えれば、若手は本音を言うようになる。
本音を言えるようになれば、組織は良くなる。
組織が良くなれば、人は残る。

どこかで、そう思っていた。

だが現実は、そんなに一直線ではなかった。

山本が言った。

「心理的安全性の問題じゃなかった、ということですか」

亮一は首を横に振った。

「いや、関係はあると思う」

「関係はある?」

「話しやすくなったから、村上は最後にきちんと言葉を残そうとしているのかもしれない」

山本は黙った。

亮一は続けた。

「でも、心理的安全性だけで人が残るわけじゃない」

山本は、静かにうなずいた。

「安心して話せることと、ここで働き続けたいと思えることは、別なんですね」

「たぶんな」

亮一はそう言ってから、自分の言葉に苦さを感じた。

たぶん、ではない。
それは、今まさに目の前で起きている現実だった。


その日の午後、亮一は村上と面談した。

人事担当者も同席したが、空気はできるだけ硬くしないようにした。
退職を引き止めるための場ではなく、村上の言葉を聞くための場にしたかった。

会議室に入ってきた村上は、以前より落ち着いて見えた。
退職を決めた人間に特有の、どこか肩の力が抜けた表情だった。

亮一は、最初に言った。

「今日は、無理に引き止めるためだけの面談にはしない。もちろん、残ってくれるなら嬉しい。ただ、それ以上に、村上が何を感じていたのかを聞かせてほしい」

村上は少し戸惑ったあと、うなずいた。

「はい」

亮一は続けた。

「最近、職場の雰囲気は少し変わったと感じていたか」

村上は、少し考えた。

「感じていました」

「どんなところで」

「前より、言いやすくなったと思います。会議でも、間違ったことを言ったら終わり、みたいな感じは減りました」

亮一はうなずいた。

「それは、良い変化だったか」

「はい。そこは、本当にそう思います」

村上は一度、目線を落とした。

「だから、言いづらかったです」

「何を」

「辞めたいと言うことです」

亮一は黙った。

「部長が変えようとしているのは、わかっていました。山本課長も、よく間に入ってくれていました。だから、自分が辞めると言ったら、裏切るみたいになるんじゃないかと」

「裏切りではない」

亮一は、すぐに言った。

村上は少し驚いた顔をした。

亮一は言葉を足した。

「少なくとも、俺はそう思わない」

村上は、小さく頭を下げた。

「ありがとうございます」

会議室が静かになった。

亮一は聞いた。

「一番大きかった理由は何だ」

村上は、すぐには答えなかった。

しばらく沈黙したあと、少しずつ話し始めた。

「この会社で、何を目指せばいいのかが見えませんでした」

亮一は、メモを取る手を止めた。

「何を目指せばいいのか」

「はい。目の前の数字を追うことはわかります。営業だから、それは当然だと思います。でも、数字を出した先に、自分がどう成長していくのかが、あまり見えませんでした」

村上は言葉を選びながら続けた。

「課長になることが目標なのか。専門性を高める道があるのか。別の仕事に広がる可能性があるのか。そういう話を、ちゃんと聞いたことがなかった気がします」

亮一は、胸が痛くなった。

言われてみれば、そうだった。

亮一は、心理的安全性について何度も話してきた。
発言しやすい空気。
失敗を隠さないこと。
言うべきことを言える関係。

だが、その先にある「この会社でどう成長できるのか」について、どれだけ具体的に話してきただろうか。

村上は続けた。

「あと、これは失礼かもしれませんが」

「構わない。言ってほしい」

「上の人たちを見ていて、あまり楽しそうに見えませんでした」

人事担当者が、わずかに顔を上げた。

亮一は、目をそらさなかった。

村上は慌てて言った。

「すみません。悪口ではないです」

「わかっている」

「みなさん、責任感があって、真面目で、すごいと思います。でも、いつも忙しそうで、余裕がなくて。上に行けば行くほど大変そうに見えました」

村上は少し笑った。

「正直、自分がああなれる気もしないし、なりたいと思えるかもわからなかったです」

その言葉は、静かだった。
だが、亮一には強く刺さった。

若手は、制度説明だけを見ているわけではない。
上司の言葉だけを聞いているわけでもない。

表情を見ている。
帰り際のため息を聞いている。
会議後の沈黙を感じている。
忙しさに押しつぶされそうな背中を見ている。

そして、そこに自分の未来を重ねている。

亮一は、ゆっくり聞いた。

「村上は、うちで成長できないと思ったのか」

村上は首を振った。

「成長できない、とは思っていません。ただ、成長した先の景色が見えませんでした」

亮一は、その言葉をノートに書いた。

成長した先の景色が見えない。

それは、心理的安全性だけでは届かない問題だった。


面談後、亮一は自席に戻らず、空いている小会議室に入った。

しばらくして、山本がやってきた。

「部長」

「入ってくれ」

山本は亮一の顔を見て、何かを察したようだった。

「厳しい話でしたか」

亮一は、うなずいた。

「厳しかった。ただ、聞けてよかった」

山本は向かいに座った。

「何が一番大きかったんですか」

亮一は、ノートを開いた。

「この会社で、何を目指せばいいのかが見えなかった」

山本は黙った。

「成長した先の景色が見えない、と言っていた」

山本は、背もたれに体を預けた。

「……それは、きついですね」

「きついな」

「でも、わかる気もします」

亮一は顔を上げた。

「山本もか」

山本は苦笑した。

「正直に言えば、私も課長になったとき、何を目指せばいいのかよくわかりませんでした。目の前の数字と、部下のフォローと、上からの指示で一日が終わる。成長しているというより、処理能力だけ上がっていく感じです」

亮一は黙って聞いた。

山本は続けた。

「でも、それを若手に見せてしまっていたんでしょうね。背中で育てているつもりで、背中で不安にさせていた」

亮一は小さく息を吐いた。

「俺たちの責任だな」

山本はすぐには返事をしなかった。

そして、少しだけ慎重に言った。

「部長。責任はあります。でも、誰か一人のせいにすると、また見誤る気がします」

亮一は、山本を見た。

山本は続けた。

「村上は、部長が嫌で辞めるわけでも、私が嫌で辞めるわけでもない。もちろん、会社に何も問題がなかったわけでもない。たぶん、いろんなものが積み重なったんだと思います」

亮一は、うなずいた。

「その通りだと思う」

「心理的安全性って、離職を止める薬ではないんですね」

「薬ではないな」

亮一はノートを閉じた。

「どちらかと言えば、検査に近いのかもしれない」

「検査?」

「組織のどこに痛みがあるのかを、見えるようにするものだ」

山本は、少し考えた。

「見えたら、治療しないといけない」

「そういうことだ」

「見えない方が楽ですね」

「楽だな」

亮一は少し笑った。

「でも、楽な組織ほど、気づいたときには手遅れになる」

山本も苦笑した。

「それ、健康診断で毎年言われるやつです」

「再検査を無視するタイプか」

「部長、それは今ここで言わなくてもいいです」

二人の間に、少しだけ人間らしい空気が戻った。

だが、笑って終われる話ではなかった。

村上は、おそらく辞める。

それでも、残された側は続いていく。


その日の夕方、亮一はチーム全体の予定表を見ていた。

数字を追う会議。
案件確認。
進捗報告。
クレーム対応。
月次レビュー。

予定はびっしり詰まっていた。

だが、その中に「これからどう成長していくか」を話す時間は、ほとんどなかった。

部下の未来について話す時間がない。
管理職自身の未来について話す時間もない。
目の前の仕事に追われ、今日を何とか終わらせる。

その毎日の積み重ねが、若手にこう見えていたのかもしれない。

この会社で長く働く自分が見えない。

亮一は、ノートに書いた。

「心理的安全性は、安心して働ける土台である。
しかし、人が残るには、安心だけでは足りない。
自分の未来が見えること。
成長した先の景色が見えること。
管理職が疲弊した姿だけを見せないこと。」

ペンを置いたとき、山本からチャットが届いた。

山本
「部長、村上の件ですが、チーム全体にどう伝えるか考えた方がいいですね」

亮一
「そうだな」

山本
「単なる退職報告にすると、変な憶測が出ます」

亮一
「本人の意向は尊重する。理由を勝手に語らない。ただ、チームとして考えるべきことはある」

山本
「そこです」

亮一は画面を見つめた。

退職は、本人だけの話では終わらない。
残る人たちにも影響する。

「やっぱりこの会社はダメなんだ」と受け取る人もいる。
「村上だけが特別だった」と片づける人もいる。
「自分もそろそろ考えよう」と静かに思う人もいる。

だからこそ、扱い方を間違えてはいけない。

亮一は山本に返信した。

亮一
「明日の朝、少し話そう。村上の退職理由を話すのではなく、チームのこれからについて話す」

山本
「了解しました」

亮一は、続けて人事担当者にメールを送った。

件名は、こうした。

「退職面談項目の見直しについて」

本文は短かった。

退職理由を個人事情として処理するだけではなく、組織課題として整理する仕組みが必要だと感じています。
心理的安全性、評価、キャリア、成長実感、管理職の働き方の観点から、退職面談項目を見直したいです。

送信ボタンを押したあと、亮一はしばらく画面を見ていた。

職場の空気は、少し良くなった。
それは間違いない。

だが、良くなったからこそ、見えてくるものがある。

安心して話せるようになった人は、前向きな意見だけを言うわけではない。
ときには、組織にとって聞きたくない現実も口にする。

「辞めます」

それもまた、一つの声だった。

亮一は思った。

心理的安全性を整えれば、人は辞めなくなる。
そんな都合のいい話はない。

それでも、心理的安全性には意味がある。

辞める人の言葉を、会社への裏切りではなく、組織からのフィードバックとして受け止められるようになる。

残る人の沈黙を、単なる問題なしと見なさず、まだ言葉になっていない不安として扱えるようになる。

管理職の疲弊を、個人の根性不足ではなく、構造の問題として見直せるようになる。

人は辞める。

どれだけ丁寧に関わっても。
どれだけ空気を整えても。
どれだけ言葉を尽くしても。

それでも、人は辞める。

だからこそ、辞める人を責めるのではなく、辞める理由から目をそらさないことが必要になる。

亮一は、ノートを閉じた。

明日、チームに何を話すか。

まだ答えは出ていない。

ただ一つだけ、決めていた。

村上の退職を、ただの欠員で終わらせない。

その言葉だけは、亮一の中ではっきりしていた。


あなたへの問い

  1. 退職理由を「本人都合」として処理しすぎていないか。
  2. 若手社員は、管理職の働く姿を見て「自分もああなりたい」と思えているか。
  3. 心理的安全性を、単なる“話しやすさ”で終わらせていないか。
  4. 評価・成長・キャリアの見通しは、現場の社員に具体的に伝わっているか。
  5. 管理職自身が、苦しさや限界を言葉にできる状態になっているか。
  6. 辞める人の言葉を、組織改善のフィードバックとして扱う仕組みはあるか。
投稿者について

hideyuki_kubota

1967年生まれのひつじ年の獅子座。O型