残る人たちは、何を見ているのか
村上の退職意向は、チーム内にも伝わり始めていた。
もちろん、理由までは共有していない。
本人の意思もある。
会社としても、個人の事情を軽々しく話すわけにはいかない。
ただ、空気というものは不思議だ。
正式に発表していなくても、何かが起きていることは伝わる。
誰かの席で交わされる短い会話。
人事との面談予定。
山本の少し硬い表情。
亮一が会議後にすぐ席へ戻らず、しばらく小会議室にこもっていたこと。
そういう小さな違和感を、職場の人間は驚くほどよく見ている。
翌朝の営業会議。
亮一は、いつものように前方の席に座った。
資料はある。
数字もある。
議題もある。
だが、メンバーの視線は数字よりも、どこか別のものを探しているようだった。
誰もはっきりとは言わない。
けれど、沈黙の質が少し違う。
以前の沈黙は、言いたいことを言わない沈黙だった。
今日の沈黙は、言ってはいけないことを探している沈黙だった。
亮一は、会議の冒頭で資料を閉じた。
「今日は、最初に少し話をさせてほしい」
メンバーの目が集まった。
山本も、横で静かに座っている。
亮一は続けた。
「すでに何となく感じている人もいると思う。村上が、退職の意向を出している」
会議室の空気が止まった。
誰かが小さく息を吸った。
亮一は、そこで言葉を急がなかった。
「本人の詳しい理由を、ここで私から話すことはしない。そこは本人のものだからだ」
数人がうなずいた。
「ただ、ひとつだけ言っておきたい」
亮一は、一度メンバー全員を見た。
「誰かが辞めることを、すぐに“誰のせいか”にしないでほしい」
会議室がさらに静かになった。
「もちろん、会社やチームに課題がなかったと言うつもりはない。私にも見えていなかったことがある。山本にも、みんなにも、それぞれ感じることはあると思う」
山本が少しだけ視線を下げた。
亮一は続けた。
「でも、退職を一人の問題として片づけると、何も残らない」
若手の一人、藤崎が顔を上げた。
「部長、それは……どういう意味ですか」
亮一は、藤崎を見た。
「村上が辞めることを、“村上は合わなかったんだ”で終わらせることもできる。逆に、“誰かが悪かったんだ”と犯人探しをすることもできる」
「でも、それだけでは次につながらない。大事なのは、残る私たちが何を見直すかだ」
山本が、そこで口を開いた。
「村上の退職理由を詮索する場にはしない。ただ、チームとして考えるべきことはあります」
亮一はうなずいた。
「そうだ」
そして、ゆっくり言った。
「今日は数字の前に、一つだけ聞きたい」
メンバーが亮一を見た。
「このチームで働き続ける自分の姿を、みんなは想像できているか」
空気が、さらに重くなった。
だが、それは悪い重さではなかった。
逃げていた問いが、やっと机の上に置かれたような重さだった。
最初に口を開いたのは、藤崎だった。
「正直に言うと、あまり考えたことがありませんでした」
亮一はうなずいた。
「そうか」
藤崎は続けた。
「毎月の数字とか、案件対応とか、目の前のことはあります。でも、三年後に自分がどうなっているかと言われると……あまりイメージできないです」
別の若手が言った。
「私もです。今の仕事が嫌というわけではないです。でも、次に何を目指せばいいのかは、よくわかっていません」
山本が静かに聞いた。
「課長になりたい、という感じではない?」
若手は、少し困った顔をした。
「課長になりたいかと言われると……正直、よくわからないです」
山本は苦笑した。
「なるほど。なかなか刺さるな」
会議室に、小さな笑いが起きた。
その笑いで、少しだけ空気が動いた。
別の社員が言った。
「課長職が嫌というより、課長が何をしているのかがよくわからないです」
山本が目を丸くした。
「そんなに見えない?」
「見えないです」
「けっこう働いているんだけどな」
「それは見えています」
「そこは見えているのか」
「はい。忙しそうなのは、すごく見えています」
今度は、もう少し大きな笑いが起きた。
山本は天井を見上げた。
「見せたいところと、見えているところが違うんだな」
亮一は、その言葉を聞き逃さなかった。
見せたいところと、見えているところが違う。
それは、管理職側にとっても痛い言葉だった。
亮一は言った。
「山本、今のは大事だな」
山本はうなずいた。
「はい。課長の仕事を見せているつもりで、単に忙しそうな姿だけ見せていたのかもしれません」
藤崎が少し遠慮がちに言った。
「すみません。別に山本課長だけの話ではなくて」
山本はすぐに返した。
「わかってる。いま俺が代表で被弾しているだけだ」
また少し笑いが起きた。
亮一は、その笑いを見ながら思った。
これだ。
心理的安全性とは、誰も傷つかない空気をつくることではない。
少し痛いことでも、関係を壊さずに言葉にできる状態をつくることだ。
いまこの場には、少なくともその入口がある。
会議の後半、亮一はホワイトボードに三つの言葉を書いた。
「安心」
「成長」
「見通し」
そして振り返った。
「この数か月、私は“安心”にかなり意識を向けてきた」
誰も否定しなかった。
「失敗を隠さない。意見を言える。違和感を出せる。これは必要だと思っている。今でもそれは変わらない」
亮一は、次に「成長」を指した。
「ただ、安心だけでは足りない。人は、ここにいて自分が伸びている感覚がなければ、だんだん苦しくなる」
次に「見通し」を指した。
「そして、成長した先に何があるのかが見えなければ、不安になる」
山本が腕を組んで言った。
「つまり、心理的安全性はスタートラインであって、ゴールではない」
亮一はうなずいた。
「そういうことだ」
藤崎が言った。
「部長、今までは“言いやすい職場にする”という話が多かったと思います。でも、“この職場でどう成長するか”は、あまり話してこなかった気がします」
亮一は、真正面から受け止めた。
「その通りだと思う」
会議室が静かになった。
亮一は続けた。
「そこは、私のミスだ」
藤崎は少し驚いた顔をした。
部長が、会議で自分のミスを認める。
以前の亮一なら、簡単にはできなかったかもしれない。
いや、できなかった。
亮一自身も、それを感じていた。
「ただし」
亮一は少し声を強めた。
「だからといって、会社が全部用意してくれるのを待てばいい、という話でもない」
メンバーの表情が少し引き締まった。
「キャリアは、会社が一方的に与えるものではない。本人が考えるものでもある。ただ、会社や上司が何も示さずに、“自分で考えろ”だけでは乱暴だ」
山本がうなずいた。
「地図も渡さずに、“目的地は自分で決めろ”と言っているようなものですね」
亮一は少し笑った。
「そうだな。しかも道中に工事中の看板が多い」
「部長、それは今のうちの組織の話ですか」
「一般論だ」
「一般論にしては、やけに現場感があります」
会議室に、また小さな笑いが起きた。
亮一はホワイトボードに、もう一つ言葉を書いた。
「対話」
「結局、ここに戻る」
亮一は言った。
「心理的安全性は、優しい言葉を増やすことではない。対話を成立させるための土台だ」
その日の午後、亮一と山本は小会議室で、今後の進め方を整理した。
山本がホワイトボードに書き出す。
一対一面談。
キャリア面談。
評価基準の見える化。
課長業務の共有。
若手の挑戦機会。
退職面談項目の見直し。
山本はペンを止めた。
「やること、多いですね」
亮一は椅子にもたれた。
「多いな」
「正直、通常業務だけでも手一杯です」
「わかっている」
山本は、少し表情を曇らせた。
「でも、こういう話って、いつも後回しになりますよね。緊急じゃないから」
亮一はうなずいた。
「緊急ではない。でも、重要だ」
山本が苦笑した。
「出ましたね。重要だけど緊急じゃないやつ」
「一番やられやすいやつだ」
「会議室の隅で、いつも静かに干からびているやつです」
亮一は少し笑った。
「干からびる前に拾うしかない」
山本は、ホワイトボードを見ながら言った。
「でも、全部いきなりは無理です」
「そうだな」
「まずは、何からやりますか」
亮一は少し考えた。
そして言った。
「一対一面談を変える」
「今もやっていますよね」
「やっている。ただ、案件確認になっている」
山本は苦笑した。
「それは否定できません」
「進捗確認、数字確認、トラブル確認。それで終わっている。本人が何を感じているか、何に迷っているか、これからどうなりたいか。そこまで聞けていない」
山本はうなずいた。
「面談という名前の業務連絡ですね」
「そうだ」
「耳が痛いです」
「俺も痛い」
亮一はノートに書いた。
「月一回、十五分でいい。全員と、案件以外の話をする」
山本が確認した。
「テーマは?」
亮一は三つ書いた。
一つ目。
最近、仕事で手応えを感じたこと。
二つ目。
いま、少し引っかかっていること。
三つ目。
半年後に、できるようになっていたいこと。
山本はそれを見て言った。
「かなりシンプルですね」
「シンプルにしないと続かない」
「確かに」
「立派な制度にすると、だいたい最初の二回で終わる」
山本が笑った。
「ありますね。名前だけ立派なやつ」
「“未来創造型キャリア共創ミーティング”とか」
「部長、急にコンサル会社みたいな名前を出さないでください」
「言っていて少し恥ずかしくなった」
二人は少し笑った。
だが、やることは具体的になってきた。
亮一は続けた。
「もう一つ。課長の仕事を見える化する」
山本は眉を上げた。
「私の仕事ですか」
「そうだ」
「何を見せるんですか」
「課長が何に悩み、何を判断し、何を捨てているのか」
山本は少し困った顔をした。
「捨てているものまで見せるんですか」
「そこが大事だと思う」
亮一は言った。
「若手から見ると、管理職はただ忙しそうに見える。でも実際には、優先順位をつけたり、リスクを引き受けたり、誰かの失敗を裏で支えたりしている。その中身が見えないと、単なる罰ゲームに見える」
山本は苦笑した。
「課長職、罰ゲーム説」
「笑えないだろ」
「笑えません」
亮一は言った。
「笑えないなら、見直す必要がある」
山本は、少し真面目な顔に戻った。
「たしかに」
翌週から、一対一面談が始まった。
亮一は最初に藤崎と向き合った。
会議室ではなく、窓際の小さな打ち合わせスペースを使った。
重々しくしすぎないためだった。
藤崎は、最初から少し警戒していた。
「今日は案件確認ではない」
亮一が言うと、藤崎は少し驚いた顔をした。
「そうなんですか」
「案件の話は、別でやる」
「では、何を話せば」
亮一は紙を一枚渡した。
そこには、三つの問いだけが書かれていた。
最近、仕事で手応えを感じたこと。
いま、少し引っかかっていること。
半年後に、できるようになっていたいこと。
藤崎は紙を見ながら言った。
「これ、すぐ答えないとダメですか」
「いや。考えながらでいい」
藤崎は少し黙った。
そして言った。
「手応えは……先週の提案資料です。お客様に、“前よりわかりやすくなった”と言われました」
亮一はうなずいた。
「それはいいな」
「ただ、引っかかっていることも同じです」
「どういうことだ」
「資料を作るのは好きなんです。でも、営業としてはもっと前に出ないといけない気もしていて。自分の強みが何なのか、よくわからなくなる時があります」
亮一は、すぐに助言しなかった。
以前なら、こう言っていたかもしれない。
「営業なんだから前に出ないと」
「資料だけでは評価されないぞ」
「もっと自信を持て」
どれも間違いではない。
だが、今それを言えば、藤崎の言葉は閉じる。
亮一は聞いた。
「半年後、どうなっていたい?」
藤崎は少し考えた。
「お客様の課題を整理して、提案の方向性を自分で組み立てられるようになりたいです」
「商談で前に出ることより、設計力を高めたいということか」
「はい。たぶん、そこに自分の強みがある気がします」
亮一はメモを取った。
「わかった。次の案件で、提案骨子を藤崎に任せる。その代わり、最初から完成形を求めない。山本と私で途中レビューする」
藤崎の表情が少し明るくなった。
「いいんですか」
「いい。ただし、任せるということは、楽をさせるという意味ではない」
藤崎は小さく笑った。
「そこは、わかっています」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんか」
「心理的安全性があるので、正直に言いました」
亮一は思わず笑った。
「使い方が少し上手くなってきたな」
藤崎も笑った。
短い面談だった。
だが、亮一は手応えを感じていた。
一対一面談とは、部下の不満を聞く場ではない。
上司が正解を与える場でもない。
その人が何を感じ、何を得意とし、どこで迷っているのかを一緒に見る場なのだ。
数日後、山本との定例ミーティング。
山本も一対一面談を始めていた。
「どうだ」
亮一が聞くと、山本は少し疲れた顔で言った。
「思ったより、重いです」
「重い?」
「みんな、思っていることありますね」
「そうだな」
「でも、普段は出てこない」
亮一はうなずいた。
山本は続けた。
「面談してみて思ったんですが、みんな会社に大きな不満があるわけではないんです。ただ、小さな見えなさが積もっている」
「小さな見えなさ」
「自分は何を期待されているのか。何ができるようになれば次に進めるのか。課長は何を見ているのか。部長は何を考えているのか」
山本は、少し苦笑した。
「見えないものが多いんです」
亮一は言った。
「そして、見えないものは不安になる」
「はい」
山本はメモを見ながら続けた。
「心理的安全性って、“言えるようにすること”だと思っていました。でも、それだけでは足りないですね」
「何が必要だと思う?」
「見えるようにすることです」
亮一は、山本を見た。
山本は続けた。
「何を期待しているのか。何を評価しているのか。どう成長できるのか。管理職が何に悩んでいるのか。そこが見えると、たぶん安心の質が変わる気がします」
亮一は、ゆっくりうなずいた。
「安心の質か」
「はい。単に怒られない安心ではなくて、自分がここで進んでいける安心です」
亮一は、その言葉をノートに書いた。
自分がここで進んでいける安心。
答えは、そこにある気がした。
夕方。
亮一は、村上の席を見た。
まだ本人は出社している。
引き継ぎ資料を作っているようだった。
周囲のメンバーは、以前より少しだけ村上に声をかけるようになっていた。
「これ、引き継ぎありがとうございます」
「ここ、あとで教えてもらえますか」
「次の職場、決まったら教えてくださいね」
ぎこちなさはある。
だが、腫れ物に触るような空気ではなかった。
それだけでも、悪くないと思った。
退職者を透明人間のように扱う職場もある。
辞めると決まった瞬間、急に距離を置く職場もある。
でも、辞める人にも、最後までその人の仕事がある。
残る人にも、最後までその人と向き合う時間がある。
亮一は思った。
人が辞めることは、組織にとって痛みだ。
だが、その痛みをどう扱うかで、残る人たちが見る景色は変わる。
「辞める人は裏切り者」
そう扱えば、残る人は本音を隠す。
「辞める理由は本人都合」
そう片づければ、残る人は諦める。
「辞める人の言葉にも意味がある」
そう受け止めれば、残る人は少しだけ、自分の声にも意味があると思える。
心理的安全性とは、辞める人を引き止める魔法ではない。
残る人たちが、組織の向き合い方を見ている。
そこに気づけるかどうかだ。
その夜。
亮一は、自分のノートにこう書いた。
「残る人たちは、退職者への扱いを見ている」
その下に、さらに書いた。
「残る人たちは、上司が失敗をどう扱うかを見ている」
「残る人たちは、管理職が本音を言えるかを見ている」
「残る人たちは、自分の未来がここにあるかを見ている」
亮一はペンを止めた。
心理的安全性の誤解。
それは、単に「優しくすること」と誤解されることだけではない。
もう一つの誤解がある。
心理的安全性を整えれば、組織の問題がなくなるという誤解だ。
実際には逆だ。
心理的安全性が少しずつ整うと、組織の問題は見えやすくなる。
沈黙していた不満が出る。
曖昧だった不安が言葉になる。
見ないようにしていた矛盾が、会議室の真ん中に置かれる。
それは、楽なことではない。
だが、見えないまま腐っていくよりは、ずっといい。
亮一はノートを閉じた。
窓の外には、夜のビルの明かりが並んでいる。
明日も仕事は続く。
数字も追わなければならない。
案件も進めなければならない。
村上の退職も止まらないかもしれない。
それでも、亮一は少しだけ前を向いていた。
人が辞める現実から、目をそらさない。
残る人の沈黙を、問題なしと決めつけない。
安心だけでなく、成長と見通しをつくる。
それが、次にやるべきことだった。
亮一は、パソコンを閉じた。
明日の一対一面談の予定が、カレンダーに並んでいた。
以前なら、少し面倒に感じたかもしれない。
だが今は違う。
これは、数字の前にやるべき仕事だ。
人が残る理由を、組織の中につくる仕事だ。
振り返る問い
- 退職者の扱いを、残る社員がどう見ているかを意識しているか
- 一対一面談が、単なる進捗確認や案件確認で終わっていないか
- 社員は、自分が何を期待され、どう成長できるのかを理解しているか
- 管理職の仕事が、若手から「ただ大変そう」に見えていないか
- 心理的安全性を「言いやすさ」だけでなく、「進んでいける安心」につなげられているか
- 残る人の沈黙を、「問題なし」と誤解していないか

