「自分で考えて」の、その前に
村上が退職してから、三週間が過ぎた
彼の席には、もう別の資料が置かれている
引き継ぎも終わり、案件も別の担当に振り分けられた
会社というものは、不思議なくらい止まらない
誰かが辞めても、翌朝には電話が鳴る
メールは届く
顧客からの問い合わせも来る
月次の数字も待ってはくれない
佐伯亮一は、朝一番の会議資料を開きながら、デスクの横に置いた紙コップのコーヒーに手を伸ばした
ぬるい
いつ入れたのかも覚えていない
「部長、少しいいですか」
山本が、タブレットを片手に立っていた
「いいよ、どうした」
「昨日のA社の件です。先方から朝イチで電話がありました」
「また仕様変更か」
「はい。しかも、“軽微な修正ですよね”という言い方でした」
亮一は、思わず目を閉じた
軽微な修正
この言葉ほど、現場の体力を削るものはない
軽微と言う側と、受ける側で、たいてい重量が違う
「中身は」
「納期そのままで、提案範囲を広げたいそうです。追加費用は次回相談で、と」
「それは軽微じゃないな」
「ですよね」
山本は苦笑した
亮一は時計を見た
九時十五分
九時半から営業会議
十時半から人事との打ち合わせ
十一時からA社への折り返し
午後は若手の一対一面談が二件
予定表は、今日も満員電車のようだった
「担当は藤崎だったな」
「はい。いま確認させています」
亮一は少し引っかかった
「確認させている?」
山本が顔を上げた
「はい。まず先方の要望を整理して、影響範囲を出すように伝えました」
「藤崎は何て?」
「“わかりました”と」
亮一は、少しだけ黙った
その“わかりました”が、本当にわかっている時のものなのか
それとも、わからないまま引き取った時のものなのか
以前の亮一なら、そこで終わっていたかもしれない
任せた
本人もわかりましたと言った
だったら進めるだろう
だが、最近の亮一は、その一言で終われなくなっていた
「山本」
「はい」
「藤崎、たぶん詰まるぞ」
山本は少し驚いた顔をした
「そう思いますか」
「思う。A社の“軽微な修正”は、軽微じゃない。影響範囲を整理するには、契約、工数、納期、追加費用、先方の社内事情まで見ないといけない」
「たしかに」
「それを“整理しておいて”だけで渡すと、藤崎はたぶん真面目に全部抱える」
山本は、タブレットを見下ろした
「任せたつもりが、丸投げになる」
亮一はうなずいた
「そうだな」
その言葉を口にした瞬間、亮一の中で何かが引っかかった
丸投げ
最近、何度も頭をよぎる言葉だった
自分で考えてほしい
主体的に動いてほしい
いちいち指示を待たないでほしい
管理職なら、誰でも一度は口にしたくなる言葉だ
だが、その裏側で、部下に何を渡しているのか
目的は伝えたか
判断基準は示したか
どこまで任せるのかを決めたか
困った時の相談ラインはあるか
失敗した時に誰が受け止めるのか
そこを曖昧にしたまま、
「自分で考えて」
と言っていないか
亮一は、自分のノートを開いた
表紙には、前シリーズの頃から使っている文字が残っていた
心理的安全性
その下に、いつか自分で書いた一文がある
言える空気は、組織を変える入口でしかない
亮一は、その下に新しく書いた
自走できないのは、本人の意識だけの問題ではない
ペン先が止まった
山本がのぞき込む
「新しいテーマですか」
「たぶんな」
「また始まるんですね」
「何が」
「部長の、悩みながら走るやつです」
亮一は顔を上げた
「言い方が悪いな」
「でも、合ってます」
「もう少し尊敬を込められないか」
山本は少し考えた
「悩みながら走る、管理職界の長距離ランナー」
「急にスポーツ新聞みたいになったな」
「見出しなら強いです」
亮一は少し笑った
山本とのこういう会話は、以前より増えた
軽口を叩けるようになったからといって、課題が消えたわけではない
むしろ、課題は増えているようにさえ見える
心理的安全性に向き合い始めたことで、言葉は出るようになった
違和感も見えるようになった
退職の背景にも、少しだけ向き合えるようになった
だが、その次に待っていたのは、もっと現実的な問題だった
言えるようになった社員が、自分で動けるようになるとは限らない
相談できる職場になっても、判断できる社員が増えるとは限らない
安心して発言できても、責任を持って前に進めるとは限らない
自走組織
経営会議でも、最近よく聞く言葉だった
「もっと現場が自走してほしい」
「管理職が抱えすぎている」
「若手が指示待ちになっている」
「チームで考えて動ける状態にしたい」
言葉としては、正しい
だが、亮一は最近、その言葉に少し怖さも感じていた
自走という言葉は、きれいだ
だが使い方を間違えると、こうなる
任せると言いながら、説明しない
信じると言いながら、支援しない
主体性と言いながら、責任だけ渡す
考えろと言いながら、判断基準を渡さない
それは、自走ではない
放置だ
営業会議の時間が近づいた
会議室には、すでにメンバーが集まり始めていた
藤崎はノートパソコンを開き、A社から届いたメールを何度も読み返している
表情は硬い
たぶん、どこから手をつければいいのか迷っている
若手の加納は、隣の席で別件のクレーム対応メモを見ていた
電話口でかなり強く言われたらしく、朝から口数が少ない
中堅の三島は、数字の進捗表を開きながら、ため息を飲み込むような顔をしている
本人は隠しているつもりでも、肩に出ている
亮一は、その一人ひとりを見た
みんな、仕事はしている
怠けているわけではない
やる気がないわけでもない
それでも、自走しているかと言われると、まだ違う
なぜか
本人たちの意識が低いからか
最近の若手が受け身だからか
管理職が甘やかしすぎたからか
亮一は、もうその答えだけでは済ませられなくなっていた
「始めようか」
亮一が言うと、会議室が静かになった
山本が進行表を開く
「最初にA社の件です。藤崎、状況を共有してくれる?」
藤崎は少し慌てて画面を切り替えた
「はい。ええと、先方から追加要望が来ています。内容としては、既存提案に一部追加という形で……」
言葉が少し曖昧になる
山本が聞いた
「一部追加って、具体的には?」
「ええと、対象部署が二つ増えるのと、導入後の運用サポートも少し見てほしいということで」
三島が思わず言った
「それ、一部じゃないでしょ」
藤崎の顔がこわばる
「ですよね……」
山本が場を整えるように口を挟んだ
「責めているわけじゃない。先方の言い方と実態にズレがあるという話だな」
三島もすぐに言った
「あ、ごめん。藤崎に言ったんじゃない。A社の“少し”が大きすぎるって意味」
藤崎は小さくうなずいた
「はい」
亮一は、そのやり取りを見ていた
以前なら、ここで亮一が判断していた
これは追加費用
納期再調整
山本、先方にそう伝えてくれ
それで早い
業務は進む
だが、それでは藤崎はいつまでも判断の構造を学べない
亮一は、少しだけ間を置いて言った
「藤崎、この件、どう整理すれば先方と話せると思う?」
藤崎は一瞬、固まった
「私が、ですか」
「うん。今すぐ正解を出せという意味じゃない。まず、どこを整理すべきか考えてみよう」
藤崎は画面を見つめた
「ええと……追加要望の内容と、工数と、納期への影響ですか」
「いい。ほかには?」
藤崎は少し考えた
「費用への影響」
「そうだな」
山本が加えた
「先方の決裁者が誰かも確認した方がいい。追加費用の話になるなら、担当者だけで握っても後で戻る」
藤崎はメモを取った
三島が言った
「あと、こちらがどこまで対応できるかですね。全部受ける前提で考えると危ないです」
亮一はうなずいた
「その通り」
会議室の空気が少し変わった
藤崎一人の報告だったものが、チームで判断の軸を整理する場に変わっていた
亮一はホワイトボードに書いた
目的
影響範囲
判断基準
相談ライン
責任の所在
そして振り返った
「自分で考える、というのは、この五つを一人で抱えることじゃない」
メンバーがホワイトボードを見る
「目的がわからなければ、考えようがない。判断基準がなければ、決めようがない。相談ラインがなければ、止まるしかない。責任の所在が曖昧なら、誰だって怖くなる」
亮一は、藤崎を見た
「藤崎、この件は任せたい。ただし、丸投げはしない」
藤崎は少しだけ表情を緩めた
「はい」
「今日の午前中に、いま出た五つの軸で整理してくれ。十一時に山本と私で確認する。その上で、先方にどう返すか決めよう」
「わかりました」
今度の“わかりました”は、さっきより少しだけ違って聞こえた
亮一は、その小さな違いを聞き逃さなかった
自走は、いきなり始まらない
走れと言う前に、どこへ向かうのかを示す
どこまで任せるのかを決める
どこで相談していいのかを伝える
そして、転んだ時に誰が受け止めるのかを明確にする
そこまであって、初めて人は前に進める
会議が終わる頃、加納が小さく手を挙げた
「部長、ひとついいですか」
「どうぞ」
「昨日のクレーム対応の件なんですけど……自分で対応しようと思っていたんですが、どこから相談すべきか迷っていました」
亮一は、山本と目を合わせた
山本が静かにうなずく
亮一は加納に言った
「ありがとう。そこも今日整理しよう」
加納は少し安心した顔をした
亮一は思った
これだ
自走できないのは、やる気がないからではない
走り出す前に、見えていないものが多すぎるのだ
目的が見えない
基準が見えない
権限が見えない
相談していいタイミングが見えない
失敗した時の扱われ方が見えない
見えないものが多い職場で、人は自走しない
慎重になる
指示を待つ
様子を見る
無難な対応を選ぶ
それを見た管理職は、こう言う
「もっと自分で考えて動いてほしい」
だが、本当に問うべきはそこではない
自分で考えられるだけの構造を、こちらは渡しているのか
会議室を出る時、山本が亮一の横に並んだ
「部長」
「何だ」
「今度のシリーズ、重そうですね」
亮一は苦笑した
「勝手にシリーズ化するな」
「もうノートにタイトル書いてましたよ」
「見たのか」
「見えました」
「盗み見だな」
「心理的安全性があるので、報告しました」
「便利に使うな」
山本は少し笑ったあと、真面目な顔に戻った
「でも、必要なテーマだと思います」
亮一はうなずいた
「俺もそう思う」
窓の外では、午前の光がビルの壁に反射していた
電話はまた鳴る
顧客は待ってくれない
数字も追わなければならない
トラブルも起きる
部下も迷う
管理職も疲れる
それでも、組織は変えていかなければならない
自走できない社員を責める前に
自走できない構造を見直す
亮一は、ノートを閉じた
新しい問いが、始まっていた
今回のポイント
自走できないのは、本人の意識だけの問題ではない
管理職は、部下が動かない時に、ついこう考えがちです
「主体性がない」
「指示待ちだ」
「自分で考えていない」
「責任感が足りない」
もちろん、本人側の課題がないとは言えません
しかし、実務の現場ではそれ以上に、自走するための前提条件が渡されていないことが少なくありません
特に不足しやすいのは、次の五つです
- 目的
何のためにやるのか - 判断基準
何を優先して決めればよいのか - 権限範囲
どこまで自分で決めてよいのか - 相談ライン
どの段階で、誰に相談すればよいのか - 責任の所在
失敗した時に、誰がどう受け止めるのか
この五つが曖昧なまま
「自分で考えて」
と言われても、部下は動けません
動かないのではなく、動きようがないのです
管理職が気をつけるポイント
「任せる」と「丸投げ」を混同しない
今回のポイントはこれです!
任せるとは、判断できる材料を渡すこと
丸投げとは、判断材料を渡さず責任だけ預けること
この違いを管理職が自覚していないと、部下は自走するどころか、むしろ慎重になります
そして慎重になった部下を見て、管理職はまた言います
「もっと自分で動いてほしい」
この悪循環を止めるには、仕事を渡す時に次の一言を添えることです
「この仕事の目的は何か」
「どこまで自分で判断してよいか」
「迷ったらどの時点で相談してよいか」
この三つを伝えるだけでも、部下の動き方は変わります
自走組織づくりの第一歩は、社員に
「もっと考えろ」
と言うことではありません
社員が考えられるだけの構造を、管理職が整えることです

