「自走できない構造をどう変えるか」第1話

「自分で考えて」と言われても

「軽微な修正ですので、追加費用はかからないですよね」

電話口の声は、驚くほど明るかった

佐伯亮一は、受話器を持ったまま一瞬だけ目を閉じた

軽微・・・

この言葉ほど、使う側と受け取る側で重さが違う言葉もない

お客様にとっては軽微
現場にとっては設計変更
担当者にとっては残業
経理にとっては請求漏れ
管理職にとっては、あとで必ず誰かが揉める火種

亮一は、できるだけ声を落ち着かせた

「内容を確認したうえで、影響範囲を整理してからお返事します」

「ええ、ただ今回は大きな変更ではないので。そちらの中でうまく調整いただけると助かります」

うまく調整・・・

亮一は、机の上に置いたメモにその言葉を書いた

うまく調整

便利な言葉だ
誰が、何を、どこまで、どの責任で調整するのか
そこを全部ぼかしたまま、物事だけが前に進んでいく

「承知しました。まずは社内で確認します」

電話を切ると、亮一は大きく息を吐いた

すぐ横の席で、山本がこちらを見ていた

「A社ですか」

「そう」

「軽微な修正、ですか」

「よくわかったな」

「部長の顔が、軽微じゃなかったので」

亮一は受話器を置いた

「顔に出ていたか」

「出ていました。かなり」

「管理職失格だな」

「いえ、現場としては助かります。危険物の早期発見みたいなものです」

「俺は危険物か」

「扱いに注意、という意味では」

亮一は少し笑った

こういうやり取りができるようになったのは、前よりいいことなのだと思う
だが、状況が軽くなるわけではない

机の上には、A社の提案資料
午前中に返すべきメール
午後の人事面談メモ
そして、未処理の承認依頼が三件

会社はいつも、考える時間をくれない

それでも考えなければならないことだけは、容赦なく増えていく

「担当は藤崎だな」

亮一が言うと、山本はうなずいた

「はい。いまメールを読ませています」

「読ませている?」

「まず自分で内容を整理してもらおうと思いまして」

亮一は、少し引っかかった

自分で整理する

言葉としては正しい
むしろ、そうしてほしい

いつまでも山本や亮一が判断していたら、藤崎は育たない
自走組織を目指すなら、担当者が自分で考え、状況を整理し、次の打ち手を提案する必要がある

しかし

亮一は、藤崎の席に目を向けた

藤崎はパソコンの画面を見つめていた
メールを開き、資料を開き、またメールに戻る

手は動いていない

ただ画面だけを追っている

あの顔は、考えている顔ではない
どこから手をつければいいのかわからなくなっている顔だ

亮一は椅子から立ち上がった

「藤崎、少しいいか」

藤崎はびくっとしたように顔を上げた

「あ、はい」

「A社の件、見ている?」

「はい。見ています」

「どう思う」

藤崎は画面に目を戻した

「ええと……追加要望が来ていて、ただ先方としては軽微な修正という認識で……」

「藤崎はどう見ている?」

「私、ですか」

「うん」

藤崎は少し言葉に詰まった

「軽微ではないと思います。ただ、どこまでを追加と言っていいのかが、まだ整理できていません」

山本が横から言った

「そこを整理してほしかったんだ」

藤崎はうなずいた

「はい。ただ……」

「ただ?」

亮一が聞くと、藤崎は少し言いにくそうにした

「追加費用の話をしていいのか、納期調整までこちらから言っていいのか、そこがわからなくて」

山本が少し黙った

亮一は、その沈黙を見逃さなかった

藤崎は続けた

「先方は急いでいる感じですし、こちらが費用の話を出して関係が悪くなるのも怖いです。でも、このまま受けたら、たぶん制作側に無理が出ます」

亮一は、藤崎の画面を見た

メールには、確かにこう書かれていた

「既存の提案範囲内で、可能な限りご対応いただけますと幸いです」

よくある文面だ
丁寧で、柔らかくて、断りにくい

亮一は言った

「藤崎が止まっていた理由は、作業量がわからないからじゃないな」

藤崎は顔を上げた

「はい」

「どこまで自分で判断していいかわからなかった」

藤崎は、小さくうなずいた

「そうです」

その瞬間、亮一の中で何かがはっきりした

自走できないのは、考えていないからではない

考える材料が足りない
判断する権限が見えない
失敗した時にどう扱われるかがわからない

だから止まる

止まっている姿だけを見ると、指示待ちに見える
でも実際には、勝手に決めてはいけない空気の中で、迷っているだけかもしれない

山本が、少し申し訳なさそうに言った

「整理して、とだけ言ったのは雑でしたね」

藤崎が慌てて首を振った

「いえ、私も聞けばよかったんですが」

亮一は二人のやり取りを止めた

「どちらか一人の問題にしなくていい」

二人が亮一を見る

「これは、仕事の渡し方の問題だと思う」

亮一はホワイトボードの前に立った

近くにあったペンを取り、五つの言葉を書いた

目的
影響範囲
判断基準
相談ライン
責任の所在

「藤崎、この件を整理するなら、まずこの五つで見よう」

藤崎はメモを取り始めた

「目的は、A社の要望に対応することですか」

「半分正解」

「半分ですか」

山本が少し笑った

亮一は続けた

「目的は、A社との関係を保ちながら、こちらの品質と工数を守ることだ。相手の要望を全部飲むことではない」

藤崎は、少しだけ表情を変えた

「全部飲まなくてもいいんですね」

「もちろん。ただし、断るためにも整理が必要だ」

山本が言った

「影響範囲は、対象部署が増えること、運用サポートが入ること、納期、工数、費用ですね」

「それに、決裁者」

亮一が付け加えた

「追加費用の話になるなら、担当者だけで進めるとあとで止まる」

藤崎がうなずく

「判断基準は何になりますか」

亮一は少し考えた

「今回は三つだな。品質が落ちないこと、現場に無理が出ないこと、追加対応の範囲が曖昧にならないこと」

山本がホワイトボードに書き足した

「相談ラインは、午前中に藤崎が整理。十一時に私と部長で確認。その後、先方に返答」

亮一はうなずいた

「責任の所在は、先方への最終回答は俺が持つ。藤崎は整理と一次案を作る」

藤崎がペンを止めた

「最終回答は部長が持つんですか」

「そうだ」

「私が担当なのに」

「担当だから整理する。ただし、追加費用や納期変更を含む判断は、担当者一人で背負わせる話じゃない」

藤崎は黙った

その沈黙は、さっきまでとは違っていた

止まっている沈黙ではなく、理解しようとしている沈黙だった

山本が言った

「藤崎、まず一次案を作ってみよう。多少粗くてもいい」

「はい」

「ただし、全部自分で抱えない。迷ったら十時半の時点で一度声をかけて」

「わかりました」

亮一は、その“わかりました”を聞いて、少しだけ安心した

今度は、本当に動き出すための言葉に聞こえた


午前十一時

小会議室に、亮一、山本、藤崎の三人が集まった

藤崎はA4一枚の整理メモを持ってきた

「まだ粗いですが」

「粗くていい」

亮一が言うと、藤崎は少し肩の力を抜いた

資料には、A社の要望が三つに分けられていた

対応可能なもの
追加費用が必要なもの
納期調整が必要なもの

その下に、先方へ確認すべき質問が並んでいる

対象部署が増える理由
運用サポートの範囲
追加費用の決裁者
希望納期の背景

山本が資料を見ながら言った

「いいですね。かなり整理できている」

藤崎は少し驚いた顔をした

「そうですか」

「うん。少なくとも、ただ“無理です”と言う資料ではない」

亮一もうなずいた

「A社に対しても、この整理なら話しやすい」

藤崎は、ようやく少し笑った

「よかったです」

山本が言った

「ただ、ここはもう少し強く書いていい。追加費用が必要な理由」

「強く、ですか」

「遠慮しすぎると、先方は無料でできると思う」

藤崎は苦笑した

「たしかに、かなり柔らかく書きました」

亮一が言った

「柔らかいことは悪くない。ただ、曖昧なのはよくない」

藤崎はメモを取った

「柔らかいけど、曖昧にしない」

「そう」

山本が横から言った

「それ、部長がたまにできていないやつですね」

亮一は山本を見た

「今、必要だったか」

「心理的安全性があるので」

「便利に使いすぎだ」

藤崎が笑った

その笑いで、小会議室の空気が少しほぐれた

だが亮一は、笑いながらも考えていた

こういう時間を、これまでどれだけ飛ばしてきたのか

忙しいから
早く決めたいから
自分で判断した方が早いから
説明するよりやった方が早いから

そうやって、管理職が巻き取ってきた

その結果、現場はどうなったか

判断の経験が増えない
失敗の手前で学べない
どこまで決めていいかがわからない
だから毎回、上司を待つ

そして管理職は言う

「うちのメンバーは自走しない」

亮一は、少しだけ自分に腹が立った

自走できない構造を、自分たちでつくっていたのかもしれない


午後二時

A社との電話は、亮一が入った

藤崎も同席した

スピーカー越しに、先方担当者の声が響く

「今回の件ですが、できれば既存範囲内でお願いしたいんですよね」

亮一は、藤崎が作った整理メモを見ながら答えた

「ご要望は理解しました。ただ、今回の追加内容は、既存範囲内で吸収できる部分と、追加対応になる部分が分かれます」

「追加対応ですか」

先方の声が少し硬くなる

藤崎が画面の前で小さく息を止めたのがわかった

亮一は続けた

「はい。たとえば対象部署の追加については、ヒアリングと設計変更が発生します。運用サポートについても、期間と対応範囲を決めないまま進めると、御社にも弊社にも負担が出ます」

先方は少し黙った

「なるほど……では、どこまでなら現行範囲で可能ですか」

亮一は藤崎を見た

ここは任せてもいい

そう判断した

亮一は、軽くうなずいた

藤崎は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに資料を見た

「現行範囲内で対応できるのは、既存部署向けの文言調整と、画面イメージの一部修正です。一方で、新たな部署追加と運用サポート設計は、追加対応として整理した方が安全です」

声は少し硬かった
でも、ちゃんと伝わっていた

先方が言った

「わかりました。では、追加対応になる部分の見積もりを出してもらえますか」

藤崎が亮一を見る

亮一はうなずいた

藤崎が答えた

「はい。確認事項を本日中にメールでお送りします。その回答をいただいたうえで、見積もりとスケジュール案をご提示します」

「お願いします」

電話が終わった

藤崎は、しばらく画面を見つめていた

山本が聞いた

「どうだった」

藤崎は小さく息を吐いた

「緊張しました」

「そりゃする」

亮一が言うと、藤崎は笑った

「でも、整理していたので話せました」

亮一はうなずいた

「それが大事だ」

藤崎は少し考えてから言った

「自分で考えるって、全部自分で決めることだと思っていました」

山本が聞いた

「今は?」

「判断するために、何を確認すればいいかを考えることなのかなと思いました」

亮一は、その言葉をノートに書きたくなった

山本が言った

「いいですね。今の、部長が好きそうな言葉です」

亮一は答えた

「もう書いた」

「早い」

藤崎が笑った

その笑いは、朝の硬い表情とは違っていた

仕事はまだ終わっていない
見積もりもこれから
先方との調整も続く

それでも、藤崎は少し前に進んだ

亮一はそう感じた


夕方

亮一は自席で、今日の出来事をノートに整理していた

A社対応
藤崎の一次整理
山本のフォロー
相談ライン
責任の所在

書いているうちに、ある言葉が浮かんだ

自走とは、放っておいても走ることではない

亮一は、その下に続けて書いた

走り出せるだけの構造があること

ペンを置くと、山本が横に来た

「部長、今日の藤崎、よかったですね」

「よかったな」

「最初は止まっていましたけど」

「止まっていたんじゃない。見えていなかったんだと思う」

山本は少し考えた

「見えていなかった?」

「どこまで決めていいのか。何を優先すべきか。失敗した時に誰が受け止めるのか。そのあたりが見えないと、人は動けない」

山本はうなずいた

「たしかに」

「でも、管理職から見ると、動かないように見える」

「指示待ちに見える」

「そう」

亮一はノートを閉じた

「怖いな」

山本が聞いた

「何がですか」

「部下が止まっている理由を、俺たちは簡単に本人の問題にしてしまう」

山本は、何も言わなかった

亮一は続けた

「もちろん本人にも考えてほしい。主体性も必要だ。でも、考えられるだけの材料を渡していないなら、こちらにも責任がある」

山本は少し笑った

「また部長の悩みが増えましたね」

「増えたな」

「大丈夫ですか」

「大丈夫ではない」

「正直ですね」

「心理的安全性があるからな」

山本は笑った

だが、亮一は本気だった

管理職の仕事は、通常業務を回すだけでも手一杯だ
顧客対応もある
数字もある
クレームもある
部下の育成もある
自分の上司への報告もある

その中で、自走組織をつくる

言うほど簡単ではない

けれど、今日の藤崎のように、少し構造を整えれば人は動き出す

それを見てしまった以上、もう知らないふりはできない

亮一は、パソコンを閉じた

フロアには、まだ何人も残っている
電話の音
キーボードを叩く音
小さなため息
誰かの「すみません、確認します」という声

いつもの職場だった

生々しくて、面倒で、予定通りにいかなくて、人間臭い

その中でしか、組織は変わらない

亮一は立ち上がり、藤崎の席に向かった

「藤崎」

「はい」

「今日のA社の整理、明日の会議で共有してくれ」

藤崎は少し驚いた

「私がですか」

「そうだ。うまくいった話としてではなく、どう整理したら動きやすくなったかを共有してほしい」

藤崎は少し考えたあと、うなずいた

「わかりました」

亮一は言った

「完璧に話さなくていい」

「はい」

「途中で詰まったら、山本が助ける」

山本が少し離れた席から顔を上げた

「今、巻き込まれました?」

「巻き込んだ」

「了解です」

藤崎がまた笑った

亮一は席に戻りながら思った

自走組織は、誰か一人が突然走り出すことでできるわけではない

走り出せるように、周囲が道を整える
迷った時に戻れる場所をつくる
任せる範囲を明確にする
責任を一人に押しつけない

その積み重ねが、やがて自走につながる

「自分で考えて」

その言葉を使う前に、管理職が考えるべきことがある

その人は、考えられる状態にいるのか

亮一の新しい問いは、そこから始まった


今回の本質ポイント

自走とは、本人任せにすることではない

自走組織という言葉は、魅力的です

現場が自分で考え、判断し、動いてくれる
管理職が細かく指示しなくても、チームが前に進む
そうした状態を目指したい企業は多いはずです

しかし、ここで大きな誤解が起こります

それは

自走とは、本人に任せきることだ

という誤解です

実際には、自走するためには前提条件が必要です

目的が見えていること
判断基準があること
権限の範囲がわかること
相談していいタイミングが明確であること
失敗した時の責任の扱いが見えていること

これらがないまま
「自分で考えて」
と言われても、人は動けません

動けない人を見て
「主体性がない」
「指示待ちだ」
「若手が育たない」
と決めつけてしまうと、問題の本質を見失います

自走できないのは、本人の意識だけの問題ではありません

多くの場合、そこには
自走できない構造
があります

投稿者について

hideyuki_kubota

1967年生まれのひつじ年の獅子座。O型