第1回:プロローグ「火種は小さな違和感」
1|上司・香澄(かすみ)—月曜9:02、会議室B
「では、先月の反省と今月の重点、3点に絞ります」
言い終える前に、左斜め前からかすれる声が刺さる。
「……それ、先月も同じこと言ってましたよね」
発言者は部下の悠斗(ゆうと)。腕を組み、椅子の背にもたれ、視線だけが冷たい。
言葉尻は間違っていない。だが温度が違う。周囲の空気が2度、下がる。
「言ってるだけで、現場は回りませんよ。どうせ熱量続かないし」
また“どうせ”。会議室にため息が落ちる。
香澄のこめかみが、わずかに脈打つ。
(乗らない。正面から受けない。まずは“目的→事実→影響”。)
自分に言い聞かせ、SBIの型で返す。
「今の一言(B)は、他のメンバーの発言を止める影響(I)がある。次に—」
悠斗が唇を歪め、マスクの下で笑う。
「はいはい、SBI。教科書通り」
心の奥で何かが軋む。“正しさ”は、いつだって人の心を動かすわけじゃない。
2|部下・悠斗—月曜23:40、帰り道
雨上がりのアスファルト。コンビニの白い光がにじむ。
(また、やらかした?)
家に帰れば母の通院の手配、奨学金の返済メール、寝不足で固まった肩。
仕事は嫌いじゃない。むしろ得意な領域もある。
自分だけが置いていかれてる感じが、どうしようもなく腹立たしいだけだ。
「SBI?心理的安全性? “正しい言葉”を並べられるほど、現場は暇じゃない」
今日の会議、香澄の言葉は正しい。でも、俺の現実は、置いてけぼり。
(わかってくれなんて言わない。ただ、切り捨てないでほしい—)
口から出るのは皮肉ばかり。本当に言いたいことは、喉の奥で固まっている。
3|上司・香澄—水曜14:15、フロア
「環境を変えれば変わる」
そう信じて、2度部署を変えた。席替えもした。
外部ファシリテーターを呼んで、チームビルディングのワークショップも入れた。
当日は良かった。笑いも拍手もあった。翌朝、沈黙が戻った。
(“気づき”は起きても、“行動”に落ちない)
ワークショップは鏡。鏡を見ても、体は勝手には変わらない。
「香澄さん、正直もう限界です」
ミーティング帰りに、最年少の芽衣が声を震わせる。
「悠斗さん、私が話すときだけ目を合わせてくれなくて……何か、怖い」
香澄は頷く。
(このままだと、チーム全体が“学習性無力感”に落ちる。離職が出る前に手を打たなきゃ。)
4|本部長—木曜17:30、役員フロア
「移動も打った。研修も入れた。次は“指導”だろう」
本部長の低い声。
“指導”は必要だ。規律を保つための“線引き”は、リーダーの責務。
でも香澄は知っている。罰だけでは人は変わらない。
(規律と支援。線と余白。両輪でいくしかない。)
「改善計画を行動レベルで切り出して提出します。レビュー周期も短くします」
香澄は静かに答えた。
戻るエレベーターの中、手のひらの汗が冷たかった。
5|部下・悠斗—金曜19:10、モニターの白
Teamsの通知がまた光る。
“行動コミット”の案。
—毎朝のタスク可視化、昼の進捗1行報告、夕の1分ふりかえり
—会議では「否定の前に事実確認→代案→理由」をセット
—週1の1on1(15分、事実ベース+感情の棚卸し)
(窒息しそうだ)
でも、意外だった。そこに“配慮”があった。
—介護通院日の前後シフトは調整する
—期限を切る前に、達成可能性について話し合う
—「どうせ」はトリガー語。出たら一時停止、言い換え練習
(……俺のこと、見ようとしてる?)
マウスを握る手に、少しだけ力が入る。
6|上司・香澄—翌週月曜8:58、デイリー
空気を変えるのは、小さな行動から。
「30秒、目を閉じて呼吸合わせましょう。今日の“助けてほしいを1個”、チャットに書いて下さい。“ありがとう”は本人に公開でどうぞ」
軽いざわつき。だがチャットの“ありがとう”が連鎖していく。
悠斗の欄にも一行。
今日は午前、見積りの叩き台を自分でつくってみる。12:30に共有します
(自分で、って書いた)
香澄は誰にも気づかれないよう、ほんの少しだけ笑った。
7|部下・悠斗—同日12:34、共有チャンネル
「粗いけど、こういう方向性なら進められます」
送ってから、心臓が跳ねた。
既読がつく。沈黙。
1分後、芽衣から返信。
叩き台助かります!午後の打ち合わせ、これベースでいきたいです
モニターに、ありがとうのスタンプが並ぶ。
(ああ、別に“認められたい”とかじゃない。置き去りにされたくないだけなんだ)
言葉にしないまま、指先が震えた。
8|上司と部下—金曜17:55、1on1
「正直に言うと、私は完璧な上司じゃない」
香澄は最初に、自分の弱さを出した。
「焦ると、正しさで押してしまう。あなたの“皮肉”の奥に、本当に言いたい言葉があるのはわかるのに、取りに行けなかった」
悠斗は俯いて、しばらく黙っていた。
やがて小さく言う。
「……どうせ、って言うのやめたいです。
でも、言い換えが、すぐに出てこない」
香澄は頷く。
「じゃあ、“どうせ”が出たら合図にしよう。一回止めて、“現実的に不安な点を3つ言う”。私は“支援できることを3つ返す”。陳述ゲームでいこう」
二人はメモを取り、笑った。
完全には信じていない。けれど、試してみる価値はある。
レジリエンスは、挫折をゼロにする力ではない。
挫折の“回復速度”を上げる筋力だ。
9|月末の風景
すべてがうまくいくわけじゃない。
会議中にまた悠斗のトーンが刺々しくなる日がある。
その夜、香澄は机に突っ伏して泣いた。
(私だって人間だ。完璧じゃない。けど、粘る)
翌朝、デイリーのチャットに悠斗から先回りの一行。
昨日の発言、刺々しかったと思います。今日は“事実→提案→理由”で話します
誰かが、ありがとうを返した。
静かな変化は、静かなまま続く。
10|プロローグの終わりに
外部ワークショップは魔法ではなかった。部署異動も席替えも万能ではない。
それでも、対話の“設計”と回復の“筋トレ”を続ける限り、チームは壊れきらない。
「完璧な人やチームはない」が、ここで働く意味は、まだ消えていない。
——物語は、ここから始まる。
実務メモ/エビデンスと参考視点
- 心理的安全性とチーム成果:Edmondson (1999, 2018) による基礎研究。安全性は学習行動・提案・エラー報告を促進。
- SCARFモデル(脳の脅威/報酬反応):Rock (2008)。Status/Certainty/Autonomy/Relatedness/Fairness。皮肉や突っかかりの裏にはしばしば「地位」「公平」の脅威知覚。
- SBIフィードバック:Center for Creative Leadership。Situation–Behavior–Impact の事実分解で“人格批判”を避ける。
- Job Demands–Resources(JD-R)モデル:Bakker & Demerouti (2007)。要求過多×資源不足は燃え尽き(離職意図)に直結。支援・裁量・明確な役割が緩衝。
- 学習性無力感/認知の歪み:Beck 認知療法。トリガー語(「どうせ」)→言い換え練習はCBT的セルフモニタリング。
- 外部研修の“転移”:Baldwin & Ford (1988) 以降の研究で、研修効果は職場の支援・目標の具体化・レビュー頻度で定着。研修単体では持続しない。
- “感謝の可視化”の効果:Fredrickson (2004) Broaden-and-Build。肯定的感情は認知資源を拡張し、協働行動を増やす。
- 境界の明確化(役割・期待値):Role Clarity はエンゲージメントとパフォーマンスに正相関(Gallup の各種調査)。
ポイント:
- 個人の問題として矮小化せず、システム(会議設計・レビュー頻度・役割定義)に介入。
- 罰と支援の両輪:期待値・線引き+配慮・資源提供。
- レジリエンスは感情を無くすことではなく、回復を早める設計(短サイクルのふりかえり・言い換えプロトコル・小さな儀式)。

