第1話「そんな話だとは、思っていなかった」
その日の1on1は、いつもと同じ時間に始まった。
部長室のドアをノックして入ってきた彼は、いつも通り落ち着いていて、特別な前置きもなかった。
「部長、お時間少しよろしいでしょうか」
(ああ、いつもの報告だろう)
私はそう思いながら、椅子に深く腰掛けた。
「実は、今日はご相談がありまして」
その言い方も、これまで何度も聞いてきた声だった。
37歳、課長代理。
私が係長の頃から知っている男。
気が利いて、察しが良く、会議ではこちらの意図を汲んだ一言を必ず添えてくれる。
右腕、そう呼んでいい存在だと思っていた。
「結論から言いますと、退職を考えています」
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
(退職?)
一瞬、聞き間違いかと思った。
「家庭のこともありまして、少し自分のキャリアを見直したいと考えています」
声のトーンは変わらない。
感情も、迷いも、そこには見えなかった。
(なぜだ)
(今なのか)
(なぜ、彼なんだ)
私の中で、いくつもの疑問が同時に浮かび、整理が追いつかない。
「……突然だな」
それだけが、やっと口から出た言葉だった。
彼は小さく頷いた。
「申し訳ありません。ただ、かなり前から考えていました」
(前から?)
(そんな素振り、あっただろうか)
1on1は欠かさずやってきた。
話もしていた。
飲みにも行った。
仕事も任せていたし、評価もしていた。
(何を、見落としていた?)
「不満があったのか?」
そう聞こうとして、言葉を飲み込んだ。
責めているように聞こえたらいけない、そう思ったからだ。
「会社や部門に対して、不満があるわけではありません」
彼は先回りするように言った。
「部長にも、本当に感謝しています」
その言葉が、胸に刺さった。
(感謝しているなら、なぜ辞める)
(それなら、なぜ何も言ってくれなかった)
だが、私は大人として振る舞った。
部長として、冷静に、理解ある上司として。
「そうか……。簡単な決断じゃなかっただろう」
「家族のこともあるなら、無理に引き留めることはできないな」
彼は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その姿を見ながら、私はどこか現実感を失っていた。
話は淡々と進み、引き継ぎや時期の確認をして、1on1は終わった。
ドアが閉まったあと、部長室には静けさだけが残った。
(……何が起きたんだ)
机の上に視線を落とす。
評価資料、研修のメモ、コーチング資格のテキスト。
自分が積み重ねてきたものが、そこに並んでいる。
(こんなにやってきたのに)
(こんなに考えてきたのに)
胸の奥に、言葉にできない感情が溜まっていく。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、理解できないという感覚。
その日の夜、家に帰っても、頭は切り替わらなかった。
子どもたちの話を聞きながらも、心は別の場所にある。
(彼は、何を抱えていた)
(私は、何を聞いていたつもりだった)
答えは出ない。
振り返っても、確かな理由が見つからない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
――自分は、彼が辞めるとは微塵も思っていなかった。
次回予告
第2話
「彼は、分かってくれていると思っていた」
信頼していたからこそ、疑わなかった、、、
右腕だと思っていた部下との、過去のやり取りを一つずつ振り返っていきます

