「沈黙は、いつから始まっていたのか」
彼が辞めると告げたあと、私は自分の記憶を時間順に並べ直してみた。
大きな出来事はなかった。
怒鳴ったことも、詰めたこともない。
評価を下げた覚えもない。
それなのに、結果はこれだ。
(本当に、何もなかったのか)

そう問い直した瞬間から、思い出し方が変わった。
出来事ではなく、違和感を探し始めた。
最初に浮かんだのは、忙しさだった。
部長になってから、会議は増え、調整は増え、決裁は終わらない。
朝は早く、夜は遅い。
それでも私は思っていた。
(自分は現場を見ている)
(彼がいるから大丈夫だ)
彼に任せる場面が、確実に増えていた。
それは信頼の証だと思っていた。
だが同時に、彼の顔を見る機会は減っていた。
報告はメールで済ませるようになり、
細かい相談は「後で」で流すこともあった。
「今は大丈夫です」
彼は、そう言って引き下がった。
その言葉を、私はそのまま受け取っていた。
次に思い出したのは、会議での変化だ。
以前は、彼が少し先回りして補足してくれていた。
私の言葉を、現場向けに噛み砕くような一言。
だが、いつの頃からか、その一言が減っていた。
代わりに、静かに頷くだけになっていた。
(疲れているのかな)
(忙しい時期だしな)
そうやって、深く考えなかった。
飲みに行く回数も、減っていた。
私から誘うことが多かったが、
彼は「今日は家の都合で」と、やんわり断ることが増えた。
(家庭も大事にしているんだな)
(いい父親だ)
そう解釈して、踏み込まなかった。
今になって思う。
それらはすべて、助けを求めない形のサインだったのかもしれない。
彼は、声を荒げなかった。
愚痴も言わなかった。
不満も表に出さなかった。
だがそれは、問題がなかったからではなく、
問題を外に出さない人だっただけではないのか。
私は、声の大きい部下には気づきやすい。
分かりやすく困っている人には、手を伸ばせる。
だが、静かに耐える人には、どうだったか。
(彼は、何を我慢していた)
(何を飲み込んでいた)
そう考え始めると、胸が苦しくなった。
期待していた。
信頼していた。
任せていた。
そのすべてが、
彼にとっては「期待に応え続けなければならない」という圧になっていた可能性がある。
私は、自分が思っている以上に、
「大丈夫な人」に甘えていたのかもしれない。
1on1の最後に、彼が一度だけ言った言葉を思い出した。
「最近、少し考えることが増えまして」
私は、こう返していた。
「そういう時期だよな。昇格も見えてくるし」
彼は、それ以上何も言わなかった。
(あの時、止まれなかった)
(聞き返せなかった)
その一瞬の判断が、
今になって、重くのしかかる。
沈黙は、ある日突然始まったわけではない。
少しずつ、少しずつ、
話さなくても回る関係を、私自身が作っていた。
その事実を、ようやく認めざるを得なかった。
後悔というほど、単純な感情ではない。
ただ、
「気づけたはずの自分」と
「気づかなかった自分」の間で、立ち尽くしている感覚だった。
