価値観のずれについて


回転寿司チェーン店において、ある来店客の不愉快な映像が流れたのをきっかけに起きている同時多発フードテロ(敢えて言わせて頂く)。

氏名や学校、居住地までが特定され、所謂デジタルタトゥとして残されるにも拘らず なぜこのような案件が同時多発的に便乗する形で発生するのだろうか?

Z世代と一括りにして報道されている向きもあるようだが、多くのZ世代には大変迷惑な話だと思う

これに限らず、このような事件が起こるとなんとか共通項を見出そうとグループ定義する傾向が私たちにはあるらしい。特に理解できない事、自分たちの“価値観“とは異なると感じた場合はその傾向が強い。

“自分たちとは異なる“集団であることを敢えて設定することで、「対岸の火事」として評論しようとしているとも感じられる。実はこういった受け止め方が、同じような事案を発生させているのでは無いだろうか?と最近感じている

彼ら彼女らの価値観とは何だろうか?

価値観とは、その人を取り囲む全ての環境に影響される物差しのはず。

だとすれば、当然同年代だけでなく親や兄弟、教師や先輩後輩もいる訳で 価値観を形成するに至った背景を時間軸や影響度合いなども考慮して考えなければならない

人は相関関係を及ぼす関係性の中に、自分の居場所を求め築いている。最も身近な存在からの影響が(親に限らず)大きいが、年齢や性別・居住地・国籍などに関係なく乱反射の関係性の中に身を置いていることを再認識すべきでは無いだろうか?

私が今回の報道に接し、特に危機感を感じたのは模倣犯の連鎖が発生していることだ

これは世間が批判しようが、『自分の周りの関係(つまり一次関係者)から一定の評価を得ることが出来 自分の居場所が失わなければ構わない』という感覚を持っているからではないか?と思ったからだ

すなわち認識している世界が非常に狭いのだ

接している情報やSNSの反応など、直接体温を感じない関係性の世界は非常に広いにも関わらずだ

価値観の育成は教育によって為されるものであることは間違いない。多様化している現代社会とは言え、先述した通り乱反射の関係性の中に身を置いていることを踏まえると倫理観を伴う価値観は同じでなければならない。

私たちの生活は、そのような一定の共通価値観の上に成り立っているということ。これを壊す行為はあってはなら無いということ。

2人以上の世界であれば、必ずそこにはルールが存在する

そうしないと安心して生活できないからだ。

つまり私たち人間は、もともと自分勝手な生き物であるということを前提にしないといけない。

ルールを破った場合には当然ながら罰がある。そしてそのルールは、自分たちの小さな世界でのルールだけが優先されるわけではなく、その小さな世界のルールは、もう少し大きな世界のルールの中にあって守られるべきもので、さらにもっと大きな世界のルールの中にあるということ。

そのルールが守れないのであれば、この大きな世界からご退場頂くしかなくなってしまう

「価値観」のズレ

今回の事件・事案に限らず、どのような集団においても程度の差こそあれ発生する

それ故に、teachingによる知識の上乗せだけでなく 日々・常々コミュニケーションをとりながら接していく他は無い